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Yokohama's Memory8 この活気を見よ!横浜の象徴・伊勢佐木町
最終更新日 2024年2月15日
Yokohama's Memory8
【この活気を見よ!横浜の象徴(シンボル)・伊勢佐木町】
横浜最初の年表『横浜沿革誌』の明治15年(1882)2月の項に、「伊勢佐木町通に芝居小屋賑座・勇座、其他大弓場、観世物場、勧工場、飲食店等建設、数月を出ずして、繁華の市街となれり」と見えます。また、グラフ雑誌のさきがけである『風俗画報』は、明治35年に臨時増刊号『横浜名所図会』を発刊、伊勢佐木町の夜景がグラビアを飾りました。さらに、明治36年の案内記『横浜繁昌記』は、「横浜と云ふ以上伊勢佐木町は是非とも知らねばならぬ処である。伊勢佐木町の賑ひは蓋し日本第一で流石に東京の浅草でも、大阪の千日前でも、京都の京極でも遙かに此処には及ばないのである。」と記します。
Yokohama's Memory第8集は、伊勢佐木町の特集です。明治15年に「繁華の市街」となった伊勢佐木町の変遷を、明治後期から昭和戦前期にかけての絵葉書でご覧いただきます。
![]() | 伊勢佐木町の入口、明治42年の『横浜成功名誉鑑』には、「伊勢佐木町通一丁目は最殷賑の場所」と書かれています。右の白い三角屋根は商品の陳列・即売場である勧工場横浜館(明治33年3月創業[『横浜社会辞彙』再版、大正7年)、向かいの建物が同じく勧工場の帝国商品館(大正3年に焼失[『横浜社会辞彙』])です。「商品館楼上の東京ビヤホールは創立も古く可成りの繁栄だ」(『横浜成功名誉鑑』)と記されています。 | |
【横浜伊勢佐木町通りIsezakicho-Dori, Yokohama.】 |
![]() | 吉田橋(入口)方面を臨んだ位置、左の四角い白い建物は越前屋呉服店(明治41年、遠藤於菟設計)、「三層の白亜電光に輝やいた一大不夜城」(『横浜成功名誉鑑』)と紹介されています。その並びが明治40年開店の「横浜三大呉服店の一たる野沢屋」(『横浜成功名誉鑑』)、右端は書店の勉強堂、明治41年には「伊勢佐木町二丁目」を含む『横浜名所写真帖』を発行しています。となりの赤いポストは、「時代の趨勢に連れ活社会の状態を一葉の絵葉書として刷出し販売」(『横浜社会辞彙』)した、この絵葉書の発行所トンボヤです。数軒先の電柱に重なる白い建物が有隣堂、「横浜一流の称ありて業務は盛大なり」(『横浜社会辞彙』)と記録されています。 | |
【横浜伊勢佐木町 Isesakicho-dori (TheatreStreet) Yokohama.】 |
絵葉書(3) | ![]() | (3)はさらにその先からの光景、右端が「横浜名物亀楽煎餅本舗」、明治初年の開業(『横浜成功名誉鑑』)とあります。左の街並みに野沢屋がまだ見えないことから、明治40年以前と推定できます。島崎藤村の短編「雑貨店」は、伊勢佐木町の雑貨店が舞台です。全集年譜によると藤村自身、二十歳(明治24年)のときに横浜の店を手伝ったとあります。明治24年にニューヨークで出版された"Jinrikisha Days in Japan"(邦題『日本人力車旅情』)の著者シドモアはアメリカ人女性ジャーナリスト、伊勢佐木町の印象をつぎのように記述しています。「さあ、鉄の橋を渡れば伊勢佐木町だ。芝居小屋、見世物、メリーゴーラウンド、きわもの遊戯店、駄菓子屋、飲食店、古着市、それに迷路まがいの配置で骨董品店、おもちゃ屋、瀬戸物屋、木製器具店が軒を連ねる」。 横浜唯一の娯楽市街として天下に名高」(『横浜社会辞彙』)い街並みは伊勢佐木町に続く賑町、(4)は一丁目方向、(5)が現・七丁目方向を写しています。(4)の画面中央の洋風四階建ては又楽館(明治45年創業)、収容定員2、430人の常設活動写真館(『横浜社会辞彙』)、その右は「美味を以て其名を知らる」「南京料理店」(『横浜社会辞彙』)清風亭(明治45年創業)の第二号支店です。(5)の右側中央は、大正4年に建て替えられた「旧劇あり活動あり新派の連鎖劇あり」の喜楽座、向かいが又楽館、その先にはハンケチ芝居で知られた賑座あらため朝日座(大正3年)の幟がはためきます。朝日座は「常設活動写真並演芸場」(『横浜社会辞彙』)でした。これらの芝居小屋については、芝居番付が今日に残ります。 |
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【横浜伊勢佐木町通り Isezakicho Dori, Yokohama.】 | ||
絵葉書(4) | ![]() | |
【浜横(ママ) 伊勢佐木町通り Isezakicho dori, Yokohama.】 | ||
絵葉書(5) | ![]() | |
【横浜伊勢佐木町通り Theatre Street, Yokohama. |
絵 | ![]() | (6)は、「昭和十六年一月二十二日」許可済と印刷、(8)も同一構図の絵葉書にこの日付が印刷されています。(6)、(7)は(1)、(2)から関東大震災を挟み、それぞれ約三十年後、(6)の画面中央に野沢屋、右手前は伊勢ビル、左手前が「高級果実万太」、「四季それぞれの色彩を通る人の眼に映してくれた」(『伊勢ぶら百年』)ようです。 (7)の右中央はサクラサロン(カフェー)、向かいが越前屋(昭和9年以後、寿デパート)、『横浜百景』中に、日本画家小島一谿(いっけい)はサクラサロンから越前屋の建物を見た絵を描き、『横浜貿易新報』』記者山本禾口(かこう)は「エロチシズムとネオンサインとジヤズとアルコホールの夜の世界、また旺なる哉だ」と書き留めています。 (8)の左側は昭和11年新築のオデヲン座、現在『オデヲン座ウィークリー』により、洋画封切館としてのプログラムを知ることができるとともに、当時の映画文化をかいま見ることができます。左端の旗「キング」は、弘集堂の店頭と思われます。『キング』は大正14年創刊の大衆娯楽雑誌、講談社文化の中心的存在でした。 伊勢佐木町は、戦時色の高まりにつれ庶民の娯楽色が一掃され、敗戦後のアメリカ軍による接収という苦難の道を経て、今日に至っています。 |
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【(大横浜名勝) 伊勢佐木町通り Isezakicho Street (Yokohama)】 | ||
絵 | ![]() | |
【(大横浜名所) 伊勢佐木町通り Isesakicho dori, Yokohama.】 | ||
絵 | ![]() | |
【(大横浜名所) 伊勢佐木町通り Isesakicho dori, Yokohama.】 |
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